任天堂・岩田前社長の言葉は、怠惰な自分を吹き飛ばすために
2014年2月、東京ビッグサイトで
「あなたが得意なこととは…」から始まるこの言葉、今や諳んじられる方も多いのではないでしょうか。
2014年の2月、東京がめずらしく猛吹雪に襲われた日に、わたしは東京ビッグサイトの大会議室でこの言葉を「直接」聴く幸運に恵まれました。
当時学部3年から4年に上がるころだったわたしは、任天堂の会社説明会に出席していたのです。
(その頃には、大学院へ進学の意思をほぼ固めていたため、以降の選考を進めることはありませんでしたが)
登壇した岩田社長は、会社の沿革や製品について語ったのち、実に多彩なテーマで学生の興味を惹いていました。
「可愛らしいモンスターは人気が取れない」とされていたアメリカへのポケモンの進出は広義のイノベーションとして捉えうること、
海外のファンからも絶大な人気を誇る「宮本さん」に対する畏敬の気持ちについて、
一般論ではなく、個人としての岩田聡がコミュニケーションにおいて大切にしているポリシーの話などなど。
個人的には、DSやWiiを通じて取り組んだ「スリープユーザー(かつては遊んでいたが、6ヶ月以内にゲーム専用機で遊んでいないユーザー)の掘り起こし」という課題に関して、
「ノンユーザーを市場に取り込むことは成功したと言ってよいと思う。しかし、黄色(グラフ上でスリープユーザーの比率をあらわしていた色)が減らなくて」と悩ましげに振り返る姿などが印象的でした。
会社説明会というのは、まだその会社に対する興味の浅い方も対象として話す機会ですので、Webや書籍で手に入る情報というのが大半を占めていました。(今にして思えば)
それでも、いくつかの点で「大雪でも行ってよかったな」と思える収穫はありました。
恐らく、同じ会場にいた多くの方が心の中に置いて持ち帰ったのは、この言葉ではないかと思います。
「労力の割に周りが認めてくれること」
「何を仕事にするか選ぶ上で、『好きなこと』と『得意なこと』を区別しなくてはならない」、という文脈でこの言葉は語られました。
「あなたが得意なこととは、労力の割に周りが認めてくれること」
近頃は以下の記事で紹介された効果もあり、Webを介して認知度がどんどん広まっている言葉のようです。
広まるにつれ、たくさんの方が自分の経験と照らして解釈し、「自分が得意なこと」や「あいつが得意で妬ましいこと」、「自分が本当は得意ではないこと」について思い巡らすうち、
語られる言葉にも様々なバリエーションが生まれ、言葉が一人歩きを始めたという印象があります。
たくさんの方が所感を述べている中で、「ちょっとこれは違うんじゃないか」と思わせるようなものもあったので、
わたしなりに「これを外すと、言葉の意義がよく分からなくなるな」と思う観点を紹介したくなりました。
ひとつの意見として、参考になれば幸いです。
アウトプットを出さなくては、「得意」は見つからない
この言葉は、「周りが認めてくれる」という表現を使っているところがミソだと、個人的に思っています。
ここでは「認める」という言葉を「あなたが出すアウトプットに対し、他者が認知しよい評価を下すこと」という風に解釈することにしましょう。
アウトプットというと、作品のようなものや、仕事の成果や成績といったものがまず浮かびますが、
もっと広い概念、たとえば人が醸す雰囲気のようなものも、「あいつは良い奴だよな」という人物評(評価)につながるわけですから、ここで言うアウトプットとはかなり広義のものと考えてください。
そうしたとき、「周りが認める」のは常に「何らかのアウトプット」であると思います。
「得意なこと」を探すには、何はともあれ「アウトプットを出す」ことが肝心だ、という示唆があるように見受けられます。
この言葉を受け取る人には、一人の人間として、いろんな段階の方がいると思います。
すでに複数の成果が手元にあって、その中で自分の本当に得意なことを見定めようとしている人。
人並みにできると胸を張って言えること自体まだほとんど無くて、「得意」があったらどんなに良いだろうと思っている人。
前者の人に対しては、「得意なことを見定めて、それに打ち込め」というメッセージになるのでしょうが、
後者の人にはむしろ、「まずはあれこれやってみて、やったことについて周りの意見を注意深く聞いてみよう」という言い方になると思うのです。
そして、後者に近い方が世の中の圧倒的大多数だとわたしは思います。
そんな方が「自分は何が得意なのか」知ろうと思ったら、まずは何でも手をつけてみること、これが肝心なのではないでしょうか。
さらに、一人で取り組むのではなく、周りから認知され評価してもらうための手段も並行して考えることが大事だと、この言葉は教えてくれます。
属する集団を変えることで、「得意」をより明確にできる
「あなたが得意なこととは、労力の割に周りが認めてくれること」
この言葉を裏返して読めば、「人とつながらないところに『得意』は存在しない」と示すことができます。
何らかの形で他者と接点をもち、自らについて、また自らの取り組みについて、評してもらう場面が不可欠であるということになります。
このとき、どんな集団の中で「認めて」もらえるのかということが、「どれぐらい得意なのか」を測るものさしになるのでしょう。
「文章を描く」という技能についていったとき、クラスメートに文章を褒めてもらえたことで「わたしは文章が得意」と感じた人が、
同じ属性の人があつまるWebのクラスタでは全く埋もれてしまった、ということは往々にしてあるはず。
そういう風に活動のステージを変えていくことで初めて、本当に「得意」といえることを明らかにして、自分の生き方を決めていくのだと思います。
たいていにおいて、属する集団を増やしたり、変えたりすることは面倒なものです。
でも、「得意」の輪郭をより明確にするためには、新たに人とつながる努力が不可欠だと考えたら、口下手でも出不精でも、ちょっと背伸びして頑張ってみようかなという気になります。
新しい人々との交流が得意なことを見つける手助けになる。
「仕事においてはコミュニケーション能力が最も大切」というのも岩田前社長の言葉ですので、そんなに間違った読み方はしていないんじゃないかなと思います。
現状に甘んじず、まずは認知してもらうことから
大切なことは、この言葉が「労力の最小化」を第一義とした言葉ではないということです。
「得意なこと」に自覚を持つという、難しいけれど大切なことに対して、いかにアプローチすれば早道かということを述べた言葉、とわたしは解釈しています。
そして、その先には行動があってほしい、と岩田前社長は考えていたはずでしょう。
この言葉への反応をWebで見渡したとき、「実は苦手なことを切り捨てるべし」という読み方をしている方が意外と多く、わたしの考えとのギャップに驚きました。
無論、それも一理ある読み方なのだと思いますが、それはこの言葉の一面に過ぎないと思います。
「まだ自分も知らない『得意』を見つけにいくために、あたらしい努力を始め、あなたを認知してもらうべし」という受け止め方もあるということ、この記事によって誰かに届けば幸いに思います。
実はこのブログも、そんな考えのもとにはじめたことですしね。